当社に最初にお祀りされた神様です。遙か以前に一本の大杉があって、そこに当地の氏神として交野物部の祖である天照国照彦火明櫛玉饒速日命を交野大明神としてお祀りしておりました。そして、この大杉が枯れた後もその芯をご神体として大切に祀られておりました。
八幡社はもともと星田神社の東に位置する新宮山の頂上に明治時代初期まで、新宮山八幡宮としてお祀りされていました。しかし、明治維新の神仏分合整理により、当社末社の八幡社に遷座されます。
八幡宮鎮座の由来は、平安時代南都大安寺の僧・行教和尚が豊前国(現・大分県)宇佐八幡宮から男山の峯(石清水八幡宮)に御神霊をお移しする際に新宮山に立ち寄ったことにも由縁があります。後に星田の土地が石清水八幡宮の荘園となり、この地域の守護神として、八幡宮の分霊を勧請(お迎え)してお祀りし、石清水八幡宮を本宮、こちらを新宮と呼びました。
室町時代中期には新宮山八幡宮の北側に宮寺「愛染律院」が存在し、神仏習合の形で八幡社の傍に六小社、寺院六支院があり、隆盛を極めました。また、慶長20年の大坂夏の陣で東高野街道を南下した徳川家康が星田に宿営し、新宮山に陣を敷いた際には八幡宮社前の松の大木に軍旗の白旗を掲げて、八幡神の御神徳を仰いだという逸話がございます。
明治の神仏分離の際、星田の慈光寺から金比羅社を星田神社に遷霊し、合祀しております。1月9日から11日の3日間は戎祭が盛大に行われます。地元のみならず遠方からも参拝の方で境内が賑わいます。
戎信仰は戎大神様が釣り竿や鯛を持つことからも分かるように、元々は海の彼方の異郷から恵みをもたらす漁業の神として信仰されていました。その後、市場の発展により、恵みの神であることから、商売繁昌・産業発展の守護神として性格が表れ、商売が盛んな大阪を中心に関西一円の人々から深い信仰を集めております。